自己満と核心

 

このブログは自己満である。

ページを埋めるために文章を書く。

見てもらう。

 

これは一種のストレス解消なのかもしれない。

自己満足を高めるために他人に見てもらう。

これは皆がそうわかっていることなのかもしれない。

 

 

映画化された小説を買うことがある。

内容は知っているのに、映像で見ているのに、

なぜか買ってしまう。

 

だが、買った後読んでみると、映画の見た物とはまるで別物のように感じる。

 

それはなぜだろうか。

確かに、二時間の映像にまとめるのは難しい。

 

だが、映像にしたとしても、ここまで違う作品になるのかと思う。

 

そして自分なりに、出した答えはこうだ。

 

 

まず、映画化するにあたって、文字と比べて見返すことができない。

 

見て理解するしかないのに比べて、

本は何度も読み返すことができる。時間をかけて、同じところを読み返していく。

 

ここが違う。 視点だ。

映画は視覚に訴えなければいけないので、

分かりやすく、印象に残るようにしている。

だが、文字だと深みがだせる。

 

最近読んだ小説の中で、自分の生き方について、考えされられるものがあった。

 

それは、人間の中にある私は自分で創りあげたものではないという理論だ。

 

人は脳で考え、脳で動き出す指令を与えられて動いている。

 

仮に脳が自分だとするならば、心という言葉はでてこないはずだ。

 

だが、人間は心を持とうとする。

私を持とうとする。

 

それは心という場所を持たないと、細胞だけに終わってしまうのを恐れているからだ。

 

脳が見えない私、心を創り出しているんだと、

思い込まなければ、人間は人間として生きていけないのである。

 

考えるという思考自体無駄であるかもしれない。

意識より先に人間は動いているから。

 

人間は、脳が全てを担っている。

それは少し気持ち悪いと感じる時もある。

自分も私というものを持っていなければ、

生きていくことができないかもしれないからだ。

 

それは理性も入っているはずだ。

人間にしかない特殊な脳の形成はなぜ人間にしかないのだろう。

 

世界は謎ばかりである。